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遺言書
遺言書
一八八九年三月三日にノーベルはストックホルムの知人に手紙を送って次のやうなことをいつてやつた。
「どうか早速誰か瑞典の弁護士を訪ねて私の遺言書のために適當な書式を作成するやうに依頼して下さいせんか。私は白髪になり、内的にも疲れて来ました。私はいつ掃き出されてもいいように用意をしておくことを考へなければなりません。これはもうとつくにしておかねばならなかつたのですが、ほかに用事がたくさんあつて出来ませんでした」
このいひ方から察するのにノーベルはそれまでに遺言書はまだ作つてなかつたものと見える。注目すべきはノーベルがその遺言書の内容には少しも触れてゐないで唯書式だけを欲していたのはそれを目安にして個々の条件は自分の手で作るつもりであつたことである。してみると我々の知っている二つの遺言書は法律家の力を借りずに作ったものである。又手に入れた書式はあまりに一般的のものであつたのは當然のことで實際には殆んど役に立たなかつた。彼は度々訴訟事件に関係してあらゆる法律家に非常な不信の念を抱くやうになり、また實際的な事業家として彼は法律家を指して「形式の寄生蟲」と呼んで嫌つてゐた。かういふ風に法律家を信用しなかつたために結果として彼の遺言書の目的を明確に表現することが出来ないやうなことになつた。
三月の終りにはもうその希望した書式が手にはいつた。これを送ってくれた人はその返事の中でストックホルムの高等學校のことを書いたものと見えて、ノーベルは三月三十一日に次のやうな返事を出してゐる。
「遺言書の書式ありがたうございました。私は高等學校のことを考へませう。しかし、私には青年はネブカトネザールのやうに草を食べるのがよいのか、ニュートンのやうに物を考へる方がよいのか、まだはつきりわかりません。これはなかなか解決の困難な問題です。私はバビロンの王様の方が最大の哲學者よりも以上に快楽章の大十字勲章を貰つたことだらうと信じます」
後に述べる通りノーベルは一度その高等學校に資金をあてがふやうに考へた。ただしその後で気が変つたのであつた。
一八八九年にどの程度に遺言書を作成したかはわかつてゐない。しかし一八九三年に書いた遺言書で彼は「従来あつた全ての遺言書の条件を廃棄」してゐる所から見てそれは一通か或は数通あつたことは明瞭である。しかし我々には一つも解つてはゐない。現存してゐる最も古いものは巴里で作成されたもので、日附は一八九三年三月十四日で、証人はトルステン Thorsten ペル・ノルデンフェルト Per Nordenfelt スタイン・ニールゼン C.Stein Nie'sen 及びジーグルド・エーレンボルグ Sigurd Ehrenborg であつた。この遺言書では定つた金額を挙げすに差し當たり個々の人々に彼の財産の何パーセントを遺贈するといふ風になつてゐる。これ等の人々や親戚のもの知友の数は相當多数で、二十二人以下ではない。そしてみんなで財産のニ割を負ふことになつてゐた。そのほかに次の団体や學校が何パーセントか貰ふことになつてゐた。巴里の瑞典倶楽部、ウィーンのオーストリア平和協會(平和思想発達の促進のために用ゐること)ストックホルム高等學校(幹部の最善と信する方法によつて用ゐること)ストックホルム病院(使途はカロリンスカ學校幹部が決定すること)カロリンスカ學校(一定の金額を贈与し、その内の一部を以つて財團を作り、財團の利子を三年毎に幹部の決定に基いて賞金として生理學或は治療法の領域に於ける最も重要にして劃期的な發見發明者に与へること)
これらの団体に全体として財産の一割七分を宛てた。次いで遺言書には次のやうたことが書いてある。
「残りの全部をストックホルムの理科大學に寄附しこれによって一つの基本財産を設けその利子を大學から年々賞金として生理學及び医學以外の廣い知識と進歩の分野に於ける最も重要にして劃期的なる發見又は業蹟に対して分配すること。絶対的条件とするのではないが余の希望では、今日尚ヨーロッパの平和裁判所設立に対して各国政府及び国民の抱懐する奇異なる偏見に言語と行動を以って有効に闘ふ人々に特別の考慮を彿ふことである。余の決定的に希求するのはこの遺言書に企画してある賞金は瑞典人たると外国人たるとを問はず又男女の別を問はず全て最も功績ありたる人に贈与されるべきことである」
更に言葉は続いてゐる。
「専売特許の権利金として受領すべき多額の金額は大都市に於ける火葬場の設置の費用に充当するのが余の希望である。ストックホルムのカロリンスカ學校の當局が社會の安寧と保健のために重要なるこの件を如何なる団体に委嘱すべきかの指令を与へるか或は決定することを余は希望する」
この遺言書には受遺者の名が挙げてあるがその後に出来たものにはそれがない。それだけにこの方が形式としては優つてゐる。もう一つこの遺言書と最終的遺言言との相違はこの遺言書には賞金授与を委任されたものとしてノルウェーのストーティング(国会)も瑞典のアカデミーも挙がつてはゐないことである。現在ではこれらの機関が行つてゐる仕事は、平和賞に関する限りでは、理科大學が行ふことに古い方の遺言書ではなつていた。ただしそれは幾分条件付きの責任に於いてであった。文學賞については全然言葉が触れてゐない。しかし文面によれば理科大學は今日行はれてゐるやうに唯物理學化學の賞を授与するばかりでなく「生理學及び醫學以外の廣い知識と進歩の分野に於ける最も重要にして劃期的なる發見又は業績に対して」も授与することになつてゐるから、大學は文學にも又歴史言語學生等の業績でも賞金を出すことが出来たわけである。ノーベルは毎年一つの賞金(例へば物理學にだけといふ風に)だけを与へようとしたのか、それとも色々の學問に対して、多くの賞金を毎年出さうとしたのか、その点が全く明瞭でない。しかしどうも毎年一つづつ
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