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アルフレッド・ノーベルと平和運動
アルフレッド・ノーベルと平和運動
ベルタ・フォン・ズットネルの回想録を讀むと、ノーベルの平和運動に對する興味を喚び起こしたのは實は彼女であつたといふ印象を受ける。がこれはどう見ても非常に大きな誇張である。国民間に永久の平和を招来しようといふノーベルの夢想は極く若い時分から起つてゐる。あらゆる詩人の中でシェリが最も深い印象を彼に與へたのであるが、この「イスラムの反乱」を書いた詩人シェリ以上に不撓不屈の平和主義者を見出すことは困難であらう。それ故にシェリの平和主義がノーベルの平和に對する関心の根底にあつたのである。但し、シェリの平和主義には空想的ユートピア的傾向が顕著であるが、それが自然科學の場合には無くなつて、その代りに實行可能な目標の方に向いてゐるのである。
軍事的發明に才能を大いに働かした人が同時に著しい平和主義者であつたといふことは、明かに一つの矛盾の如くに見えるであらう。しかしこの矛盾は説明が出来るものと思われる。先づ第一に確かにいへろことはノーベルの最初の大きな発明であるダイナマイトは軍事上の目的を考へて作られたのではなくて、大体岩石の爆破等工業上に川ゐるためのものとするつもりであったということである。一八八〇年代になってはじめてノーベルは無煙火薬など軍事上の問題に発明能力を向けるやうになったのである。彼がその方に心を惹かれるやうになったのは勿論問題それ自身のためであって、かういふ問題は実際上の応用とか経済上の意義とにかは別にして純然たる技術上の問題として彼のやうな登明家の素質を持った者には強い魅力を特ってゐたのである。その後バリスティットの場合のやうに、彼のためにも彼の会社のためにも経済祀府的に非常に意義のある結果を生じて来ると、彼にそれを完全に利川するだけの財政家たるの手腕は十分あった。一方彼はこの方面の活動と彼が青年時代から心を引かれていた平和主義とが調和しないことを感ぜすにはゐられたかった。彼は技術の進歩は戦争を不可能にするであらうといふことで自ら慰めようとした。そしてその後技術が発達して毒ガスや空中襲撃といふやうな結果が生じて米ると、或程度彼の意見も正しいもののやうに思はれた。しかし彼が自己弁護をする理由にしようとしたこれらのことも決して彼を全く納得せしめるものではなかった。そして一八八七年頃、発明家として戦争の技術に専心するやうになると同時に彼の平和主義も活発になってきた。彼は今やほかの方法でこの目的を達しようとした。一八七六年、彼とベルタ・フォン・ズットネルと相知るやうになつた。彼は新聞に廣告を出して秘書を求めた。彼女はこの廣告に應じ、そして秘書に雇はれる約束をした。しかし、彼女が結婚をすることになつたので實際に秘書の役をすることにはならなかつた。一八八七年の冬、ズットネル夫人は巴里で暮したが、二人は再び此處で出會つた。二人の交際は非常に頻繁といふほどひはなかつたらしい。そしてその後には一八九二年にベルンの平和會議の時に三度目に出會つた。そしてこれが二人の會合の最後であつた。この一寸前の一八八九年に彼女は「武器を置け」 Die Waffen Nieder といふ注目を引いた小説を出版した。そしてそれを機會にノーベルは彼女に手紙を書いたが、この手紙は彼が彼女の考へに實際に賛成してゐることを證明するものといふよりはむしろ丁寧で機智に富んだ手紙であつたといへるであろう。その手紙の最後は次のやうに結んでゐる。(この手紙は佛蘭西語書いてあつた)
「しかし貴女が『武かを置け』と呼ぶのは間違つてゐます。といふのは貴女御自身武器を使つてゐるからです。また貴女の武器―貴女の文章の魅力と、貴女のお考への立派さとることを拒否するものが多いとは私は思ひません。例へば一箇年間ヨーロッパの各国政府は政府間に起こつたあらゆる紛争問題をさういふ目的のために作つた法廷に提出する義務があるものとするとか、又はそれを担否するのならある約束した期間の切れるまであらゆる敵對行為を延期する義務があるとか、かういふことを要求するのは過大な要求でありませうか。これは一見すると些細なことのやうに見えるでせう。しかし大きな目的に達するのは正に小さなことに満足する所にあるのです。一年といふ期間は渚国民の生命から見れば極く短いものです。また騒がしい大臣ならさういふ短い期限の協定を實力を以つて破ることは容易であるといふかもしれません。そしてこの期限が切れるとあらゆる国家は急いで更にもう一年間彼等の平和協定を更新することでせう。かういふ風にすれば何の騒ぎもなく又殆んど訝るところもなしに長い平和の時代を現出するでせう。あらゆる人、又殆んどあらゆる政府が希望してゐる軍備撤廃に向つで徐々に進んでゆくことを考へることが出来るのはたゞかういふ風にしてだけです。仮にあらゆる手段を講じたにも拘らす二國間に争ひが起つたと考へて御覧なさい。その政府が受諾せざるを得ない義務的な休戦期間中に十中九つまでは争ひが静まるとお考へになりませんか」
一八九二年の八月にベルンで平和會議が行はれた。そしてその指導的人物の中にベルタ・フォン・ズットネルがゐた。ノーベルは近くのチューリッヒに滞在中であつたが、ズットネル夫人は彼に手紙を送りこの会議に参加するやうに頼んだ。しかし返事はなかつた。
ある日ノーベルはたしかにベルンに行つたことは行つたけれども、それも僅か数時間のことで會議には顔を出さなかつた。その後ズットネル夫人がチューリッヒに彼を訪ねて行つたとき彼は夫人に向つていつた。
「私の工陽の方があの會議よりももつと手早く戦争をやめさせますよ。二つの軍團が一秒間に互ひに相手を殲滅させることが出来る日が来たら…。」
平和會議の印象からノーベルは自分の力で平和運動に生命を吹きこんでやらうといふ気になつたらしく思はれる。
彼の平和運動の経緯はよくノーベルの性格を現はし、常に彼が他人の助けにならうとしてゐたことを示してゐるがまた聊か滑稽な所もないことはない。
巴里にアリスクルキ・ベイ Aristarchi Bey といふトルコの外交官であつた人が住んでゐた。この人は元ワシントン駐剳のトルコ大使であつたが何かの事から被免されたのであつ
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