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イムマニュエル・ノーベル
イムマニュエル・ノーベル
この息子の方のイムマニュエルの生れた家は明かに貧乏な家であつた。そして生来天賦の才能のあつたこの子供は學校教育らしい教育は全く受けなかつたらしい。文字は未熟であり綴字は出鱈目、文章を作る力も甚だ貧弱であつた。學校へ行くことも僅かで、十四歳といふ年に既に船員にさせられてしまつた。恐らく母方の祖父が船員であつたといふ理由からかういふ職業が彼のために選ばれたものであつたらしい。ゲーヴレ Gavle の海員組合の記録によると、一八一五年に彼は船員として登録されてゐる。それによると次の如くである「一八一五年少年エマニュエル・ノベル Emanue1 Nobell に海員組合に於いて勤務登録を許可す一八〇〇年三月二十四日出生。父、軍医エマニュエル・ノベル。母、ブリタ・カタリナ・アールベルク Brita Catarina Allberg 未婚。船長スヴェードマン Svedman により地中海勤務船室給仕として雇傭さる」
※何かの理由によつて實際より満一年年長になつてゐる。
スヴェードマン船長の船はテーティス Thetis 號といひ、キャビンボーイの月給は四ライヒスターレルであつた。航海は相當長びき、記録によればノーベルは三年一箇月と十日勤務したことになつてゐる。従つて彼は一八一八年に歸つて来たのである。この航海はかなり困難な航海であつたらしく船員中死亡したものも多く、船長も死亡者の一人であつた。
※一八九八年十月號の「十九世紀評論]The Nineteennth Century はこの航海について頗る荒唐無稽な報告を掲載してゐろ。曰く
一、彼は船舶の構造と修善の知識を得る目的で暫く海員生活をした後、瑞典に歸り、ストックホルムで造船所に就職した。その後メヘメット・アリ Mehemet Ali の下に奉職、その間四年の間エヂプトに滞在し、一八二八年ストックホルムに歸つて来た」云々
この航海中の災厄でノーベルの海員生活に對する興味はすつかり失はれてしまつたやうである。しかし彼が帰国直後にどういふ職業についたかはわかつてゐない。
ゲーブレの週刊新聞に依るとテーティス號は一八一八年七月二十五日の数日前に歸つて来た。前の船長が死亡したので今はピー・ホムストランド P.Homstrand が指揮して地中海から歸つて来たのであつたが、積荷はフランス産の塩であつた。その直ぐ後にこの同じ週刊新聞に一つの廣告が出た。出した人は匿名の十七歳の少年で、内容は、文字が書け計算も幾分能力のある者、職業を求む、殊に海員関係のものを望む、といふのであつた。年齢といひ條件といひノーべルに符合するから、この廣告を出しだのは彼であつたのだらうと推測が出来る。たぶん生れ故郷に何か働き口を見つけたものと思はれるが、とにかく教会の記録によると一八一九年までゲーヴレにゐた。
一般に行はれてゐろ傳記によると、彼は一八一八年に「建築書生」 Architektelove になつてをり、一ハ一九年には高等専門學校(Akademie der freien Kunste)の學生になつている。が、最初の建築書生といふことは全く誤りである。何となれば當時彼はゲーヴレにゐたからである。後の方の高等専門學校云々も証明が難かしいといふのは一八一八年度と一八一九年度の学生名簿が非常に不完全であり、その後の年度の名簿が無いからである。しかしこの方は實際的には事実であつたことはそのアカデミーの記録によつてわかる。このアカデミーには建築科が初等科(Principskola)と高等科の二つあり、少くともノーべルは一八二一年に高等科に通つてゐた。といふのは一八二二年一月二十一日に行はれた賞品授のの時に彼は建築の製図に對する賞を得てゐるからである。すぐに高等科に入学することが出来ないのは自然の道理であるから、彼は一八一九年に初等科に入學したらしいと見るべきであらう。だから彼はこのアカデミーに数年ゐたのである。一八二四年一月二十五日に「學生エマニュエル・ノべル」は第四等或は小賞牌を得てをり、その翌年には三等賞テシンスカ賞牌 Tessinska‐medaille)を得てゐる。一八二六年の授賞の時は賞は唯一つしか出てゐないがその時にはいなかつた。それから考へると一八二四年が彼のアカデミー在学の最後の年であつたと思ばれる。學校の課業はさう大してきつくはなかつたのに違いない。初等科の方は月曜日と火曜日に十時から十二時まで授業があり、高等科の方は水曜日と木曜日の同じ時間に授業があるだけであつたからである。だからノーべルはこのほかに何かほかのことをしてゐよことであらうと思はれる。
彼は航海から歸つて直後に誰か建築家の所に弟子入りをしたといふこともあり得ることでそれが前の一八一八年に「建築書生」になつたといふ言葉の意味であるのかも知れない。さういふ仕事をしてゐたことがまたアカデミーの建築科に入學した理由になるかもわからないのである。
しかしこのアカデミーの建策の課業だけが彼の受けた唯一の課業ではなかつた。一七九八年に美術學校に「技術學校」が開設併設された。この技術學校は一八一三年には大部分が農業大學に移され、一八一六年になると全部が移管された。その校長は當時ストックホルムで最も人望のあつた建築家の一人フレドリック・ブロム Fredrik Blomであつた。一八一八年と一八一九年の學生名簿は保存されてゐないが、一八二一年一月二十六日に彼は王立農業大學附属技術學校学生名簿を提出してゐる。その學生といふのは「講義に出席し且前年度の王室アカデミー記念日以後に製作したる製圖又は模型を提出したる」學生の表であつた。この中にはノーベルはゐない。しかしブロムは更に次の如く報告をしてゐる。「この他に次の者が講義に出席してゐる。此等の學生は理論的學課のみに参加したる者か或はその業蹟が王室アカデミーに提出するに足る資格なき者である。即ちレ・ハリン、エマニュエル・ノベル、フレッド・リンドグレン、ジョー・エーベルク」これから見るとノーベルはやつと一八二〇年に技術學校に入學したものらしい。その証拠にはその翌年の年次報告では彼は最も勤勉で最も優秀な學生の一人といふことになつてゐる。そしてその翌年になるともう六十ライヒスターレルといふ多額の奨學金を「風力によるポンプの模型」に對する賞として貰つてゐる。
更にその翌年一八二三年にブロムは名簿の終りに次の如く書いてゐる。「上記の學生中、ノベル、ハリン、ブルマン及びベルゲンシュテッの四人のみ王室アカデミーに提出するに値する成績品を完成した。その他の者は大部分初歩の者にて、その素質は今後尚進歩発展せしむる要がある」
その翌年、一八二四年の一月二十二日再びブロムは批評を繰返してゐる。「上記の學生中ノベルとストールの二名のみ賞を得るに足る業蹟を完成せり。前者は模型、後者は製圖による」この時も彼は「可動家屋の優秀なる模型]のために六十ライヒスターレルといふ多額の奨學金を獲得した。一八二五年の賞品授与の時もこれと同じ賞金を得たが、その時は「螺旋型階段模型一個、可動家屋模型二個、織物捺染器の製圖一枚」に對してであつた。一八二五年にはまだこの學校の學生であつたが、その後の報告には彼の名は見當らない。
この學校に関して英譯本には次のやうな面白いことが書いてある。これは獨逸語の譯本にはない。一七九八年に技術學校が美術學校に設けられた。建築家はたゞ製圖が出来るだけといふのではな
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