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- 12/6/13
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- 書籍「社労士が見つけた(本当は怖い)解雇・退職・休職実務の失敗事例55」3/28発売しました。
- 11/12/21
- 書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)事業承継の失敗事例33」12/21発売しました。
- 11/11/2
- 書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)飲食業経理の失敗事例55」11/2発売しました。
- 11/5/11
- 書籍「公認会計士が見つけた!(本当は怖い)グループ法人税務の失敗事例55」発売しました。
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諸言
ノーべルといふ名は瑞典人の耳にも稀らしく響く名である。この一族の歴史を知らぬ人はこの一族が独逸又は英吉利から来た移住民の子孫であると思ひこむかも知れない。しかし事實はさうでなく、ノーべルの家は古い瑞典の農民の家で、その名は極めて自然に生れて来たものである。瑞典では家の名は古くは貴族の間にも用ゐなかつたもので、十六世紀になつても瑞典人は洗禮の時につけられた個人の名前と父親の名前で呼ばれてゐた。例へば、ヴァサVasa王朝を創始した一五二三―一五六〇の瑞典王グスタフ・ヴァサGustaf Vasaの父はエリック・ョハンソンErik Johansson と呼ばれた。十七世記になると貴族の間では主として紋章に因んでつけた家の名が行はれるやうになつた。例へば牛の頷といふ意味のオクセンシュティルナ Oxenstierna といふ風な名であつた。それが漸次に農民階級にも家の名をつけることが腕まつた。但しそれも知識階級になつて行つた農民に限られてゐた。ノーベルの一族で最も古く知られてゐる人はオーロフ Olof といふ人であるが、この人はショーネン Schonen の農民でネブベレフ Nobbelov といふ四つの部落の内の一つに住んでゐた。この人の息子のペール Per は大學ではペトルス・オラヴィ Petrus Olavi と署名した。しかしかういふ名は最もありふれた名で、ペトルスとかオラヴス Olavus とかエリクス Ericus などといふ名はたくさんあつた。そこでかういふ名の人を置別するために家の名がつけられるやうになつた。それは大抵は故郷の地名から取つた名で、例へばラウレンティウス・スヴェノニス・ウィヴァリウス Laurentius Svenonis Wivalliusといふやうな名で、これはウイヴァラ Wivalla 出身の者であつた。そこでペトルス・オーフヴィは故郷の村の名のネブベレフからノベリウス Nobeliusu といふ名をつけた。この名を彼の息子も孫も繼いだのであるがこの孫は軍人になり、軍政の風習に従つてラテン語風の語尾を取り除いて、ノベル Nobell といふことにし、後には Nobel と書くやうにした。しかし、その發音は瑞典では元の通り Nobell (ノベル)といつてゐる。
さてこの一族の歴史に戻ると、ペトルス・オーフヴィ・ノベリウスは一六八二年にウプサラ Upsala 大學の學生になつた。彼は音樂の才能を持つた青年であつたが、このために常時學生間の指導的な地位にあつた天才的な人間オーロフ・ルドベック Olof Rudbeck と親しむやうになつた。ルドペックはそれから後連綿として今に至つてゐるウプサラの樂壇の創始者である。彼は最初自然科學者とならうとし、既に學生の時に血液循環に關する解剖學上の重要な發見をしたが、その後植物學に轉じ瑞典最初の植物園を創設した。しかし最後には瑞典の歴史に關する空想的夢に捉はれてしまつた。この夢は常時の瑞典人には非常な魅力を持つてゐて、それによると瑞典は昔は一大強國であり、諧民族の母胎であり、古代文化發祥の地であつた。彼のかういふ夢想は實は常時は殆んど瑞典の國家的信仰であつたのである。しかし一面かういふ激しい空想を持つてゐたが同時に獨得の實際的な才能を具へてゐて、常時あつた技術的學間の大部分に通じてゐたし、練達した建築家であつたし、優れた行政的手腕を特つてゐた。この政治的手腕のために彼は全大學内で指導的位置に立つてゐた。このルドベックの娘、ヴェンデラ・ルドベックが一六九六年ペトルス・オラヴィ・ノベリウスと結婚した。そしてオーロフ・ルドベックの才能は、ノーベル一族の子孫に遺傅して行つた觀がおる。即ち科學的堪能と強力な空想が結合され、實際的であると同時に美的な素質が遺傅されたのでありがこの素質は殊にこの一族中最も有名なアルフレッド・ノーベル Alfred Nobel に於いて認められるのである。
この一族の初期の間の人々はあまり人で知られてゐない。オーロフ・ルドベツクの娘と結婚した音樂的才能のあつたペトルス・オラヴィ・ノベリウスは裁判官こなり一七〇七年に死んだ。その子のオーロフは父とは異つた職業を選び藝術家となり徴細畫を業とし結婚後かなり多數の子女を持つた。そのため一七六〇年彼が死んだ時はこの一家は決して裕福ではなかつた。その時末子のイムマニユエル Immanuel は僅か三歳であつた。そして父母が貧困であつたことは結局彼の一生を支配することになつた。彼は醫學に志を立て、この方面に相當の才能を持つてゐたやうに思はれたのであるが、資力の足らなかつたために半途で學業を中斷しなければならなかつた。そしてウプランド聯隊 Uppland の下士官になつた。その時分に彼は、自分の姓をノベリウスからノペル Nobell と變へたのであつた。その内に一七八八年、ロシアと戰爭が始まつた。當時瑞典の軍隊は軍醫が甚しく缺乏してゐたので、聯隊に属する者で、醫術の心得のあるものは總て軍醫に採用された。ノベルも亦その一人であつた。戰爭後になつても彼のこの職業を繼續して行つたが、いつも家計は樂ではなかつたやうである。彼は一八三九年に死んだ。そして、その子も父と同じくイムマニユエルといひ、生れたのは一八〇一年であつた。
このイムマニユエルからこの一族の歴史は實際に始まるのである。
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